近づかないで、その想いに触れないで。
大事に抱えていたそれに触れないでと思うのに。
どうして君はそれに触れようとするのだろうか。
なぜ、君は僕に触れるんだろう。
奏でるのは恋の歌 act.6
気づいたらその後姿が見えたから。
キラはうっすらと瞳を開いて、耳に捕らえる音にぴくっと動かす。
少し細い線の音。キラはそこでようやく自分が寝ていたと言う事実に気づいた。
華奢な背中をぼうっとした頭で天井を仰いだ後見つめる。
耳に届くのはピアノの音色と優しい歌声。キラはようやくこの声の主に思い当たってもう一度その背を見つめる。
世界の歌姫、ラクス・クライン。
そう称される理由が何となくわかるような気がした。
ラクスの歌声は優しい。優しく慈しみ、そして大きな腕で守られているような安らぎを与える。
『私もこういう風に歌ってみたいなぁ』
それはかつて恋人が呟いた言葉。病室の片隅に置いておいたオーディオ機器から流れてきたのは優しき歌声。
あの時聴いたのはこの声だったのだと言うことに気づいて、キラは苦笑いを浮かべる。
皮肉なものだな、と独りごちていた。
「君は何を思って歌っているの?」
キラはその背に尋ねる。驚いたのか、びくっと身体を震わせ、その歌声とピアノの音色を止めた。
「あ・・・・・・起きられたのですね」
ラクスはキラの顔を確認すると、小さく頭を下げて軽い挨拶をする。
「うん。・・・・・・ねぇ、君は何を思って歌っているの?」
キラはもう一度その答えを求める。ラクスはちょっと困った顔をしてキラを見つめるとその優しき声音で言葉を紡いだ。
「私の大切な人たちを思って、ですわ」
「ふぅん。どうして?」
「どうして、と尋ねられたのは初めてですわね」
「そうなの?」
ええ、とラクスは頷く。そうしてその薄い桜色の唇が綴るのはラクスの想い。
「最初はもう自分の手の届かない人のことを想って歌っていましたわ。私を大切にしてくれた人たちを。
今は私が大切だと思う全ての人を想って歌います。友達であったり、そう、たくさんの人たちを想って」
「そう。手の届かない人って?」
キラは尋ねる。ラクスの表情は少しだけ俯き、寂しそうな表情を浮かべた。
その表情にキラは一瞬目を瞠る。どうして彼女と被ったのか。
その横顔があの日の彼女の表情にあまりにも似ていた。
「母です。私の幼い頃に病気で帰らぬ人となりました。祖父母はその後すぐでしたし」
ラクスが明かす素性にキラは言葉を探す。
失う痛みを知る人は強いと言う。キラはこの華奢な体のどこにその強さがあるのだろうかと思案した。
自分と同じようで違う。強さをも兼ね備えた少女。
それに比べて、自分は。
「覚えているの?」
「ええ。優しい人でしたわ」
安らかに眠れるように、人に対してやさしくなれるように、自分がそうでありたいと願う想いを込めてラクスはいつも歌っていた。
キラの横顔からは何を考えているのか解りかねるが、少なくてもキラもまた何かを失ったのだろうかと思わせるような口調だった。
それは、先ほど口にした『フレイ』、なのだろうか。
キラはソファの上に寝そべっていた身体の向きを変えると、重い腰を上げた。
「・・・・・・どいて」
「え?」
「僕が伴奏するから、歌って」
キラの勢いに負けたのか、ラクスはゆっくりとイスから腰を上げてピアノの傍に立つ。
キラはラクスが先ほどまで座っていたそのぬくもりに触れた。
ラクスとは違う大きな手がピアノの鍵盤の上に覆いかぶさる。
そうして奏で始めたメロディーは誰もが知る曲、『アヴェ・マリア』だった。
ラクスは最初見せていた戸惑いの色をさっと消し去ると、メロディーにのせて歌を歌い始めた。
歌うのは好きだった。
昔から大好きで、ラクスはいつも母の伴奏に合わせて歌っていたのを覚えている。
母が亡くなってからは先生やマリューが伴奏をしていた。
だが、今、伴奏をしているのはキラ。
いつにも増して自分の声が響くのを感じ、また高揚感を感じる。
この想いは一体何なのだろう。歌う気持ちにのせるこの不思議な想いは何なのだろうか。
いつもよりも気持ちが入り、ラクスは透き通る音色を響かせる。
これが、ラクス・クラインの歌声。
人々を魅了するその歌。
キラは伴奏をしながら瞳を閉じてその声を耳にとらえる。彼女がずっと病床の時に聞いていた音。
この音に癒しを求め、優しさを求めた彼女―――の。
やがてピアノの音と共に歌声は消えてゆく。曲の終焉だった。
「キラ?」
ラクスはキラを見てぎょっと目を見開く。キラの瞳からこぼれていたのは涙。
どうしていいのかわからず、ラクスはその雫を拭おうとキラの瞼に触れた。
キラの体温がラクスの指先から伝わる。
キラは驚いてラクスの顔を見つめていた。
「どうして・・・・・・」
「え?」
「どうして、あの時じゃなかったんだろう」
「? キラ?」
ラクスはキラへと問い直す。キラはラクスの手を掴むと瞼に触れていたラクスの手を避けた。
片方の空いた手をラクスはぎゅっと握り締める。
この人の囚われているものは何なのだろうか。
「触れないで」
「キラ・・・・・・」
「優しくしないで」
「キラ、あの・・・」
「触れてもいいのは、フレイだけだ」
キラはきっぱりと言い放ち、鞄を持つとレッスン室を後にする。
ラクスはどうしていいのかわからず立ち尽くしていた。
触れてもいいのは、フレイだけだ
キラの言った言葉がラクスの胸を刻んでゆく。
それは、キラからの拒絶。
掴まれた手が、触れた指先が熱い。
ラクスは顔を歪めてきゅっと唇を噛み締める。
私は、キラのことが好き。
拒絶されて、初めて自分の想いに気づく。
ラクスは青い瞳から一粒の雫を零してキラが出て行ったドアを見つめていた。
こぼれ落ちたのは雫だけなのか、それとも溢れるばかりの想いだったのか、当のラクスもわからない。
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