ひたすら鍵盤の上で指を躍らせたかった。
何かにとりつかれたようにずっと弾いていたかった。


この熱が本物だという証明が欲しかった。



歌を歌うことがこんなにも苦しいものだなんて知らなかった。
知らなかったからこそ、この想いをなくしたくないと願った。




奏でたかったのは『恋の歌』――――。








でるのは  act.1









その音色に出会ったのは偶然の出来事。
食い入るようにその音色に飛びついた日のことを忘れない。
たまたま収録現場であるスタジオで、自分の順番を待っている時だった。
ピアノの旋律がドアの中から漏れて聴こえ、その音色に耳が自然と傾く。
この音色は?と問うとプロデューサーはあぁと頷いてその名を口にした。


「あぁ、これはジャズピアニストの『キラ・ヤマト』だよ」


ほら、最近巷で噂になってるのは聞かないかい?
プロデューサーの言葉をそっちのけでその音色に耳を傾ける。
ひどく切ない音色なのにあたたかくて、言いようのない想いが胸をかきむしった。
どう表現すればいいのかわからない。
まるで何かを捜し求めるような音色に思わず瞳を濡らして、雫が自然と溢れた。

「ラクス? 大丈夫かね?」

「あ・・・・・・私・・・・・・」

声をかけられたことに気づいて、はっと意識を現へと元に戻される。
願わくばもう少しその音色に耳を傾けたかったけれど、その音色は止んでしまっていた。

「あの、何か?」

スタジオの中から声をかける数名のスタッフが顔を出す。

「い、いえ。すみません。迷惑をかけてしまって」

自分の行為が急に恥ずかしくなって袖でそれを拭おうとすると、すっと目の前に白いハンカチが差し出された。
きょとんとそのハンカチから視線を上に上げると、さっきまで弾いていたはずの人間が目の前に立っていた。

「使う?」

「え、あの・・・本当にすみません」

さすがに袖で拭おうとしたのは忍びなかったのか、差し出されたハンカチを受け取ると涙をふき取った。
恥ずかしい、こんなことなど生まれて初めてかもしれない。

「大丈夫?」

「はい。ご迷惑をおかけしてしまいすみませんでした」

座ったままでぺこりと頭を下げて謝るといいよ、と頭から言葉が降りかかる。
このまま顔を上げるのが恥ずかしくて少し気が引けたが、そのままでいるわけにもいかず顔を上げると視線が交差した。
不思議そうな瞳で自分を見つめる。

「どうして泣いていたの?」

「あの、ちょっと胸が苦しくなって」

「どうして?」

「あなたの音色を聴いていたら、切なくて、それで・・・・・・」

「そう」

もっと口にしたい言葉はあったのに、とっさに出てくることは出来なかった。
でも今口にした言葉が自分の率直な感想であり、本音なのだから。
彼の瞳の奥に一瞬だけ見えた傷ついたような瞳にはっと息を飲む。傷つけてしまっただろうかと急に不安に襲われた。

「あの・・・・・・」

「あぁ、ごめんね。気にしないで。・・・・・・ありがとう」

そう言うと彼は踵を返してスタジオの中へと足を向ける。
とっさに自分の手が彼の袖を掴んでいたことに気づいて、自分自身が驚いた。

「あの?」

「え、あの、このハンカチ」

「あぁ、あげるよ、君に」

「でも」

「曲を聴いて泣いてくれたから・・・・・・。だから、あげる」

言葉少なげに返すと今度こそスタジオの中へと入っていった。
呆然とした瞳でその背中を見つめ、一つ息をついた。
一瞬だけ見せた傷ついたような瞳が目に焼きついて離れなくて。
手に持つそのハンカチをぎゅっと握ってスタジオのドアを見つめていた。



奏でる音色は切なくて。

だから気になってしまったのだと。




これがきっかけにしかすぎないなど誰が予想しただろう。





恋の歌の始まりだった。














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