ある朝の火原家の風景。
いつものように、慌ただしくそれぞれが行き交う。その中には当然、火原もいる訳で。
「和樹」
その中でもひときわバタバタと走り回っている火原に、テーブルに着いていた母が声をかけた。なに?と振り向いた火原の口には、先程焼き上がったばかりのトーストがくわえられていて、とても明瞭な返事とは言えなかったが。
「和樹!何度言ったら分かるの!食べる時はちゃんと座りなさい!消化に悪いでしょ」
母は溜息を一つつくと、目の前の珈琲を一口飲んだ。
「でも、母さん、おれちょっと急いでるんだけど」
と、取りあえず椅子に片尻だけ乗っけたような格好で座ると、トーストを飲み込んで答えた。
早くしないと、いつもの電車に乗り遅れちゃうよ……。
今日は久し振りの3年生は全員登校の日だった。だから、香穂子と一緒に学校に行ける日でもある訳で。もう、後何回こうやって彼女と一緒に、高校に通う事が出来るんだろう…、ちょっとそんな事を思ってしまう位、貴重な朝なのだ。
だから、電車に乗り遅れるなんてあってはならないし、そんな事にでもなったら、必然的に香穂子の家に着くのも遅くなってしまう訳で。香穂子に遅刻させでもしたら、男の沽券に関わるとでも言った所か。
「じゃぁ、単刀直入に言うわ。あんた、彼女が出来たんだって?」
「へ?」
「しかも、なかなか可愛い子らしいじゃないの」
「へ?」
火原は突然言われた事に対応出来ずに、バカみたいに同じ返事を繰り返していた。
「お?何だ和樹、彼女出来たのか?良かったなぁ。今度、父さんにも紹介してくれよ」
そこに父がテーブルに着いて、新聞を広げながら暢気にそう言った所で、ようやく火原の呪縛が解かれた。
「何で…?!」
ふと視線を巡らすと、母の隣でニヤニヤと意味ありげに笑う兄と目が合った。
「あーにーきーーー!」
火原は、間違いなく情報の発信元である兄を睨み付けた。
「だってホントの事だろ?いーじゃねーか。それとも何か?親に知られてマズイ事でもあるのか?ん?」
兄は悪びれた様子もなくそう言いきった。
そんな事を言われてしまっては、認めざるを得ない。
別にマズイ事は無いが、色々と気恥ずかしい。まぁ、マズイなんて言ってしまったら、詮索の嵐に巻き込まれてしまうのは火を見るより明らかだろうが。
「そ、そんな事はないけどさー」
「じゃ、いいじゃねーか」
そう言われてしまったら、何も言えない。
せめてもの抵抗に兄の顔を睨み付けていると、母がとんでもない事を言い出した。
「じゃぁ、今度の週末に彼女連れてらっしゃい」
「は?!」
「母さん、楽しみだわー。家は男2人だからつまらなかったし。やっぱり、買い物とか一緒に行きたいわよね〜」
「か、母さん?」
何だか、もう既に香穂子が家に来るのが決まっているような口ぶりに、火原は慌てた。 その内連れてこい、とは言われるかもしれないとは思っていたものの、こんなに急に言われるとは思ってなかったのだ。思った事は即実行!の血はどうやら火原家の血筋のようで、ここにも脈々と流れているようである。
「そんな事言ったって、向こうの都合だってあるじゃないか。母さんの勝手で決められないよ」
言っても無駄かもしれないと思いつつも、一応抗議の声を上げておく。火原家では父よりも母の方が強かった。それは勿論、体力的にと言う訳ではなかったけれど。
「だから、週末って言ったでしょ?土曜日か日曜日のどっちか位空いてるでしょ?どうせデートするんだろうし」
だったら、家に連れてきなさいよ、の言葉に火原は逆らえなかった。
まぁ、その内家族に引き合わせてもいいかな位には考えてはいたのだが、こうも自分の知らない所で話がとんとん拍子で決まっていくのも何だか癪に障る。それでも強く反対するのも、違う気がして渋々了承したのだった。
「ほら、和樹、そろそろ行かないと間に合わないわよ?」
「うわっ、やっべぇ!いってきま〜す!!」
そう言って慌てて駆け出す火原の背中を見送りながら、母はゆったりと珈琲を飲みながら微笑むのだった。
「香穂ちゃん、おっはよー!」
「あ、和樹先輩、おはようございます」
「じゃ、行こっか」
香穂子の家について、一通り挨拶を済ませると学校へと向かった。
「先輩と学校に行くの久し振り」
ニコニコと香穂子がそう言う。火原と一緒に行けるのが嬉しくてたまらないとでも言うように。
「そう言えばそうだね」
それが分かるから、火原も自然と笑顔になる。好きな人と一緒にいて、嬉しくない訳がないだろう。
「後何回、こうやって一緒に行けるのかなぁ…」
ポツリと香穂子がそう言う。その横顔は真っ直ぐ前を見ていて、火原を見ていなかった。
そんな香穂子の様子に、火原の胸がぎゅっと鷲掴みにでもされたように痛んだ。
もうじき、火原はこの学院を卒業していく。たった一つでも年の差がある以上、離れなければならないのは仕方がない事だと言うのも分かっている。
卒業は火原にとっては、いつも新たなスタートだった。小学校の時も中学の時も、寂しいと言う感情よりは、新たな場所に飛び込む喜びや期待の方が大きかった。
今回だって、新しい場所に飛び込んでいく楽しみは変わらない。けれども、置いて行かなきゃならない寂しさや、離れなければならない辛さを味わうのは初めてだった。
けれども、今それを言ったら彼女を更に不安がらせてしまうのは明白だ。
「大丈夫、おれ大学に行っても香穂ちゃんの事迎えに行くよ」
それは、自分自身にも言い聞かせるように。
離れてたって、大丈夫だと。
「えー、でも大学と高校じゃ始まる時間が違うんじゃないんですか?」
「大丈夫、おれ早起きだから。高校の方が授業は早く始まるんじゃないのかな?早めに大学に着いてるのは問題ないでしょ?」
「そう言うもんですか?」
「そう言うもんでしょ?」
そう言って、顔を見合わせて笑ってしまった。
「分かりました、じゃぁ、お願いします。でも先輩、一つだけ約束して?」
「なに?」
「無理はしないで。出来ない時はそう言って?」
「うん、分かった。そう言う時は電話するよ」
「うん」
そっと伸ばされた手のひらを捕まえて、緩く握り込んだ。
自分とは違う柔らかくて、小さな手。
この手を握っているのがずっと自分であればいい、そう思うから余計に離せなくなって、ぎゅっと握りしめてしまった。
「先輩?」
その手の強さに気付いた香穂子が、火原の顔を覗き込む。
「あぁ、うん、なんでもない」
「そう?」
「うん。って、あっ!」
「先輩??」
なんでもないと言った火原が急に素っ頓狂な声を上げるから、香穂子は何事かと立ち止まってしまった。
「あのさー、香穂ちゃん。今週末なんて、空いてないよね?」
「今週末?」
「うん、そう。急な話だから予定とか入っちゃってるよね」
「いえ…、特に何もないですけど?」
「本当に?天羽ちゃんと買い物とか、そんなの無いの?」
「無いですけど…?」
香穂子は火原の意図する事が分からなかった。予定を聞く位だから、きっとどこかに遊びに行かない?とか、そう言う類のお誘いなのかと思っていたら、どうやら違うようだ。香穂子に予定が無いのがいけないような、そんなニュアンスを感じる。
火原は空いてる方の手で、首の後ろ側に手をやってしばし考え込んでいたようだが、やがて意を決したように言った。
「あのさ」
「はい?」
「今度の週末、おれん家来ない?」
「先輩のお家ですか?」
「うん、そう」
「…またお家の人、誰もいないんですか?」
「ちがっ、そ、そうじゃなくて、そりゃ、いないほうがおれとしては良いんだけど…って、そうじゃなくて!」
火原の慌てた様子に香穂子が笑う。
余りに火原が深刻そうな顔をしているから、何事かと心配になったのだが、単なる取り越し苦労のようだったので、安心して笑う事が出来た。
「もう、香穂ちゃん笑いすぎだよ?」
「すみません、だって先輩、お家に誘う位ですごく深刻そうな顔をしてるから…」
まだ笑いが治まらなくて、涙まで出てきてしまった。それを拭っていると、火原がとんでもない事を言い出した。
「…家の母さんが、香穂ちゃんに会いたいって」
「え?」
「だから、今度の週末連れてこいって厳命が下ったんだ」
「厳命?」
「家の母さん、思い立ったら即行動の人でさー。この間香穂ちゃん、家の兄貴に会ったじゃない?それを兄貴から聞いて、香穂ちゃんに会ってみたくなったらしいんだよ、それで」
連れて来いって言われてさ、と続けた火原は香穂子の手を握り直しながら歩き始めた。
「だから香穂ちゃんの方に何か予定が入ってれば、諦めてくれるかなーって。あ、だからって別に香穂ちゃんの事を紹介したくない訳じゃないんだよ?それは誤解しないでね。ただ、急な話だからさ」
「先輩のお母さんですか…」
この間、火原の兄に会った。気さくそうな素敵なお兄さんだった。そうしたら、今度は火原の母が香穂子に会いたいと言う。好きな人の家族に会うと言うのは無性に緊張する。けれども、会いたいと言われているのを無下に断るのも変な話だ。
「いいですよ、私、先輩のお家に行っても」
だから、香穂子はそう答えた。
火原の親御さんだ、いずれ会う事になるんだったら、別に今回でも構わない話だ。
「え?いいの?ホントに?」
「はい。だって先輩のお母さんでしょう?だからきっと素敵なお母さんじゃないかなって思うし」
「えー、素敵かどうかはおれにはちょっと…」
困ったように言う火原にちょっと笑って、丁度学校に着いた所だったので、エントランスでそのまま別れた。
先輩のお母さんかー、緊張する事は緊張するけど、ちょっと楽しみかな。
そう思って、香穂子は自分の教室に向かった。