陸の向こう、このビルの向こう
隔てる距離には、長さよりも壁を感じた。
そう、それは。
彼と私の。
今現在の隔てる長さ――――
急に彼が姿を消したのはまだ気候がそれほど暑く感じない初夏の陽気が漂う頃だった。
前触れもなく、その姿を消した時。
何かとても置いてきぼりを食らったような子供のような心境になったものだ。
せめて。
せめて、一言でも言って欲しかった。
そう思うのは、そう願うのは私の我侭なんだろうか。
はぁと一つため息をついて空の彼方を、彼のいる島の方角を見つめる。
棋院からの帰りは、いつもよりも足取りが重い。
もう行ってから二ヶ月、か。
季節、変わっちゃったじゃない。
口の中で舌打ちしながら、文句の言葉を並べても返ってくる言葉はないのに。
どこかで期待している自分が切ない。
早く、帰ってきなさいよ。
バカ。
またもう一つため息をついた時、その場の空気が変わった。
無造作に鞄の中から鳴り出す着信メロディが、それを告げるように。
慌てて取り出し、そのディスプレイに示された名は。
『伊角 慎一郎』
だった。
「・・・・・・・・・あ、奈瀬?」
久々に聴く彼の声に思わず言葉が出ない。何て答えればいいのかなんて忘れてしまった。
言いたいことなんてたくさんあるのに。
どれを最初に言えばいいのかも、言葉にするべきものさえも口から出ない。
ただ、黙って彼の声に耳を傾けるだけ。
最初に口をついて出た言葉は。
「うん・・・・・・・・・」
それだけだった。
飾る言葉なんて、文句の言葉でさえ喉につっかえたまま。
「今帰って来た」
「そっか」
「何も言わないで、ごめん」
彼の謝罪の言葉に、何かを感じ、口をついた時には自分でも呆れてしまった。
「ごめんって、だったら最初から言ってよ。一言だけでも言ってよ!遅いわよ、バカ」
勢いに任せて、捲くし立てるように言う。
そんな労力残ってたのかと自分でも驚いた。
「ごめん」
「ずるいわよ、伊角くん。ずるい・・・・・・・・・」
「ごめん、奈瀬」
「バカ・・・・・・」
『ごめん』しか言わない彼に少し憤りを感じながらも、でもどこかでこうやってしゃべられることに嬉しささえ込み上げてくる自分がいて。
そんな自分に対して文句はあるけれど、今はどうでもよかった。
「・・・・・・みやげ。」
「え?」
「お土産あるんでしょうね?」
話題を移すと、今度は彼の方が驚いているようだった。
多分、目をぱちくりさせながらケータイ電話を持っていることは容易に想像できる。
「あるよ。もちろん」
「なら、よし」
「そっか」
「うん、少しだけ許してあげる」
くすっと笑って、それが彼にも伝わったらしく、耳元で小さく笑った声が聞こえてきた。
ケータイを握る手には俄かに汗がにじむ。
「奈瀬」
彼に呼ばれる。その響きはどこか心地がいい。
「なに」
「・・・・・・・・・ありがとう」
しばらく間を置いてから、そっと紡がれる言葉。
優しく耳元で響く。
あぁ、もう。
これだから、伊角くんは。
「これで許すと思ったら大間違いだからね」
ちゃんと釘を刺すことを忘れずに。
そのちゃっかりさに彼は思わず声をたてて、小さくくすくすと笑っていた。
「ねぇ、聞いてるの? わかった?」
「あぁ、わかったわかった」
中国よりもより近い距離にいるのに。
遠く感じるけれど、でもどこかこの声の近さに嬉しさが込み上げた。
隔てる距離には変わらないけれど、このビルの向こうにいるようで安心さえ覚える。
会った時、きっと言えるだろう。
『おかえり、伊角くん』
まだ言えない言葉を残して、彼との電話を切ったのはそう言う理由から。
遠くて、近い。
近くて、遠い。
隔てる距離の向こうにいる彼はまだ笑っているのかもしれないと思った。
END