昔はその遠くを見つめる瞳が苦手だった。
いつだってその瞳が追うのはあの子だったから。
その瞳に私はいないんだとずっと思っていたから――――。
「あ、そこはこっちの公式」
「え? あ、ああ・・・そっか、こっちを当てはめればいいのか」
ふんふん、と頷きながら上条はプリントの中の問題を解いていく。隣で本をぱらりと捲りながら美琴は時折指摘を混ぜて説明をしていた。この光景が当たり前になったのは最近のことだ。本来なら年上である上条が年下の美琴に勉強を教えるのが普通なのだろう。だが、美琴は常盤台中学出身者。常盤台中学と言えばお嬢様でレベル3以上しか入れない学校、エリート校だ。卒業する頃にはどこへ出ても恥ずかしくない一端の人間となるよう教育されている。つまりはある程度の教育課程は受けてしまっているのだ。既に中学にいた美琴が上条の宿題を解いてしまうという前科もあったため、開き直って美琴に教えてもらっていた。
「そう・・・あ、そこ計算ミスしてる」
「え? あ、ホントだ」
慌てて解答を消しゴムで消すと上条は目の前にある答案用紙に書き直しし始めた。その様子を見つめながら、再び美琴は本へと視線を向ける。数行読み終えると視線を上条へと向き直した。その上条はと言うと机へ向けていた視線を窓の外へ向かっている。遠い遠い空へと向ける視線を見つけて美琴は複雑な表情を浮べた。
(その視線がいつも苦手だったなぁ)
いつも隣にいたはずの存在がいなくなってからの上条が時折見せる表情だった。誰へ向けてるかなんてイヤでも分かってしまう。
隣にいる自分よりもあっちが気になることが。
(私はここにいるのに)
その気持ちが美琴の胸をいつも締め付けていた。
あの不安がなくなったのはこの関係が確立されてから。正直に話をしてくれたからこそ今は酷く不安にはならないが、それでもあの時の感情を忘れたわけではない。鈍い痛みがちくりと刺す。
上条を見つめていた美琴の視線に上条が気づいたのだろう、二人の視線が交わる。
何となく気まずくて美琴は慌てて視線を戻すと、もう一度上条を見上げた。上条もまた美琴を見ていたらしく、再び視線が交差する。
「なぁ」
「ん?」
俄かに緊張の色が声に出た美琴は一人動揺を押し殺していた。今のは気づかれただろうか。余計なこと考えてるって思われただろうか、そんなことを考えては首を小さく横に振った。
「俺、夕飯はハンバーグが食べたい」
「へっ?」
「あるだろ?ひき肉を使ってころころこねたもの」
「え、あ、まぁ・・・わかるけど」
呆気に取られたまま美琴は頷くとテーブルに手を置いてゆっくり腰を上げ、歩き出した。その手を上条が掴む。
「な・・・に・・・・・・?」
掴まれた手から熱が帯びる。美琴は真っ直ぐに上条を見下ろした。
「心配すんな」
「わかってる」
それでも鈍い痛みは忘れない。
忘れることなどできるわけがない。でも―――傍にいたかった。
「アンタが信じたいこと、私は信じてる。あの子はきっと笑ってるわよ。アンタがそう言う世界にしたんでしょ」
微笑しながら答えると「ああ」と上条は頷き、その手に力を入れる。強く掴まれた腕は胸の痛みを忘れるくらいに熱かった。
頬が紅潮する。こんなに強く掴まれたのは初めてだった。
「ど、どうしたのよ?」
動揺から声が上擦る。跳ね上がりそうな心臓が指先まで小刻みに音を刻んでいた。
その腕がぐい、と上条の方へと引き寄せられる。自分よりも広い胸に顔を埋めた。
「お前が傍にいるから俺も頑張れるんだよ。お前がお前だから隣にいて欲しいってそう思うんだ」
「バカ・・・・・・」
その言葉だけで不安が吹き消されてゆく。
何でその言葉が欲しいって分かったんだろう、泣きそうな顔を隠して上条の背中に回した手を強くした。
好きだから、やっぱり見ていて欲しくて。
強気の態度の裏にあるのはどこか心の奥底に不安が残っていて。
「バカって酷いんじゃねーの?」
「本当のことでしょ」
くすくすと笑いながら少し緩んだ腕の中で美琴は顔を上げた。上条もまた美琴を見つめる。
視線が絡むと笑顔を交わす。
あなたに触れて想いを確かめる。
好きだという気持ちを、愛しいという気持ちを胸の奥に詰めて。
傍にいる幸せを噛み締めながら美琴は小さく微笑んだ。
終