厳しい冬の寒さから、優しい春の季節へ変化する景色の色はより鮮明になる。
桜の淡い薄紅色から色を付け始める濃い緑の色まで様々な色彩がこの地に染まっていた。
その景色を見つめる羽張彦は自分の目の前に落ちた花びらを拾うと、手のひらにそっと載せた。
手のひらで小さく風に揺れていた花びらも、やがて羽張彦の手の上から風に乗ってふわりと空を仰いだ。
ここには風が吹く。
花も咲き誇り、湧く水も清らかで思わず喉が鳴った。
羽張彦は自分が生きるこの地が心の底から好きだと思う。
「いいよなぁ、この季節は」
色鮮やかな季節は目に映るもの全てが愛おしい。
「寒くなくてあたたかいものね」
くす、と笑みがこぼれ落ちたのは、羽張彦の少し後ろを歩いていた一の姫だった。
「それもある。が、それだけじゃあない」
「本当?それ以外だと秋も好きそうね」
「それも間違ってないな」
くっと笑い零した羽張彦は小さく頷く。一の姫は目を細めて「美味しい作物が生るものね」と言葉を口にした。
「それって食い気の方が勝ってると言いたいのですか、姫」
「あら、間違ってるかしら?」
「・・・・・・間違ってないな。よく俺のことご存知で」
「いつも食べ物に目がいってるわ」
少なくても私が見ている時は、と返す一の姫の言葉に羽張彦はぐっと言葉に詰まる。
「こんな俺でも一応凪いでる風にあたることとか、花にも目が行くんですが」
おかしいねぇ、ぶつぶつと羽張彦は口を軽く尖らせながら呟いた。
自然と頬が緩む自分の顔に一の姫は気づく。
こう何気ない言葉を交わしている時間。
それがひどく大切なもので、こんな時間は滅多にないものだと言うことを二人は知っている。
昔のように無邪気でいられない時間が増えれば増えるほど、その一瞬一瞬を大切にしたいと二人は願った。
「・・・・・・子供の頃に戻れたらいいのに、そう思うことはある?」
伺う瞳が羽張彦の瞳を揺らす。
それでも重ねてきた時間もまた大切なものだと羽張彦は知っていた。
「あるけど、ないだな」
「答えはどっちなの?」
どっちつかずの答えに一の姫の瞳は揺れる。羽張彦は笑いながら言葉を返した。
「どっちもだ。そう思っても時を変えることはできない。だからと言って戻ってまでやり直そうとも思わない」
「羽張彦らしいわね」
くすくすと微笑む一の姫に羽張彦は黙って見つめた。
先ほどから気づいていた一の姫の瞳の奥にある暗い闇。
何があったのかと問うてもこの少女が答えないことは自分が一番知っている。
羽張彦は静かに言葉を口にした。
「今の俺は過去を積み重ねてできたものだしな。それをなかったことにするのは勿体無いだろ?」
は、と一の姫の口から息が漏れる。刹那、破顔した一の姫に羽張彦は目を瞠った。
「そうね、その通りだわ」
きゅっと唇を結んで一の姫は羽張彦の瞳を見据える。
もう迷いはない、そんな表情で見つめる一の姫は自分がこの国で一番可憐で、優しく、凛々しい少女。
何にも揺るがない意思を持つ、中つ国の姫であり、羽張彦の主。
「ありがとう、羽張彦」
気づいてたのでしょう、一の姫の言葉の裏にある言の葉を読んで羽張彦は小さく笑う。
羽張彦は地に咲く小さな花を摘むと一の姫へと指先に花を添えて言葉を口にする。
「俺の姫はそうでなくちゃ。だろ?」
「ずるいわね、あなたは」
言の葉の裏にあるのは本当の想い。口にすることのない、口にすることはできない言葉。
言葉は言霊となる。口にすることが憚られることは分っていた。
口にできないのなら、せめてと羽張彦は摘んだ花を一の姫の耳元に添える。
「・・・・・・似合うな」
そろそろ二の姫が探してる頃だろ、と羽張彦はいつもと変わらない言葉で一の姫を促す。
一瞬だけ羽張彦が触れた部分が熱を持つ。そっと一の姫は耳元に添えられた花に触れた。
一言だけ口にして、それがずるくて、でも彼らしいと一の姫は思う。
「行きましょう」
「早くしないと風早に怒られるだろうな」
「それはあなただけよ」
「まぁ、違いない」
歩き出す二人に散り始めた桜の花びらが舞う。
指先に花を添えた指先が熱を持ったまま、はらり、ひらりと降る淡い薄紅色の花を羽張彦は仰いだ。
また一年先の未来にもう一度同じ景色を瞳に映せたらいいと願う。
花を添えた指先の熱を残したまま、羽張彦はもう一度花を見上げると再び息を吸い込んだ。
熱い指先。
触れた耳元。
どれもが忘れ難い、二人で触れた春の記憶。
終