茜色の空が棚引くのを見つめながら屋上から見た景色はあまりに綺麗で、思わずため息を漏らした。
もう帰る時間なのだと言うことを否応なしに告げるこの色が少し前まではあまり好きではなかったけれど、今はちょっとだけ違う。
この色は約束の色。
あなたと一緒に帰る、一緒に過ごす時間が来るという示しのカラーなのだから。
「土浦くーん。終わったー?」
「ああ、終わった。今用意するからちょっと待っててくれ」
「うん、じゃあ待ってる」
まだ少しだけ気だるさを残す暑さに香穂子は小さなため息を吐いた。
本格的な夏はまだこれからだというのに、今からこんな状態では先が思いやられるなぁとぼんやり考えていた。
そのぼんやりとした表情が気になったのか、土浦は譜面を片付けながら香穂子へと尋ねる。
「香穂?疲れたのか?」
「あー、うん。そうかも。ちょっと暑いなぁって思って」
「まぁ、確かに今日は暑いな。蒸し暑い」
「だよねぇ。暑いのは苦手だよ」
「でも寒いのも苦手なんだろ」
「確かにそのとおりです」
くすくすと笑う土浦に香穂子は思わず苦笑いを浮かべた。
真夏の太陽は夕方になっても容赦なく熱い日差しを降り注ぐ。
「なぁ、香穂」
「うん?」
「俺は・・・・・・」
言いかけた言葉を土浦は飲み込む。香穂子は不思議そうに土浦の顔を覗き込んだ。
言葉を中断するなど土浦らしくないからだ。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと思い出してな。あの時、春にあった市の音楽祭の前に一度ケンカしたような状態になった時があっただろ」
「あー・・・うん、あれだね」
「あの時、俺が言った言葉覚えてるか?」
土浦が言った言葉、それは土浦自身に対しての苛立ちの言葉だった。
音楽科の生徒と口論になった土浦が口を噤むくらいに自分に対して苛立っていたこと。
香穂子はそんな事情を知らなかったから、どうして土浦が怒っているのか、自分が何かしたのだろうかと戸惑った。
でも真相は違う。
香穂子のことを陰で悪口言っていた音楽科の生徒と口論し、そんなことを言わせていた自分が一番腹立たしいと土浦は言っていた。
あの時は複雑な想いがあったものの、土浦の気持ちが嬉しかった。そして自分の不甲斐なさに落ち込んだりもしたのを香穂子は思い出す。
『俺は、そんなお前を守ってやりたいと思ってた』
でも、そんな想いを抱えていても本当の答えはまた違う方向に動く。
守れてるつもりだった、土浦はそう言った。
『俺がついてるのにお前がそんなことで傷つくなんて許せない。なのに俺は、そんなヤツらに一言、言ってやるくらいしかできない。そんな自分にいらいらしてたんだ』
自分の無力さが染みたあの冬の終わり。
そして季節はゆっくりと移り変わってゆく。
迎えた夏の日の今、土浦は思い出した。あの時のことを。
「俺はお前を守れてるか?」
土浦の言葉に香穂子は小さく笑った。
少しばかり不安そうな眼差しが香穂子の気持ちを突き動かす。
それはごく自然と表れた香穂子の想い。
「私、あの時言ったよね?守ってくれなくてもいいって。だって守ってくれることで辛い顔をさせるのは嫌だって」
「でも、」
「うん。土浦くんの気持ちはわかる。時々思うの。守ってくれてるんだって、そう思う時がある。・・・・・・ありがとう、土浦くん」
時折感じていたこと。あからさまではない、自然に土浦が自分を守ろうとしていること、それを香穂子は素直に受け止める。
その気持ちが嬉しいと思うから。そしてその度に感じるのは土浦が自分を好きでいてくれていると言うこと。
「・・・・・・別に」
照れているのだろう、土浦はやや下へと視線を向けてぽつりと呟いた。
二人だけしかいない教室はどことなく寂しさを覚える。
だが、今二人しかいな空間がひどく優しいものであるように土浦は感じていた。
愛しい、大切な人がいることの幸せを。
まっすぐな香穂子の双眸が土浦の瞳を深く見つめる。
「ね、帰ろう」
緩やかに笑みを浮かべて香穂子は土浦の目の前に手を差し出した。
土浦は一瞬その手を見て瞳を大きくしたものの、すぐに軽く息を吐いて「ああ」と頷く。
無造作に鞄の中へと譜面を仕舞うと、華奢で小さな手を握り返した。
「帰るか」
「うん」
二人肩を寄り添って夕暮れの教室を後にした。
黄昏の中、ゆっくりと白い月が昇り始める。
気だるい暑さを感じながらそれでも握り締めた手を離さないのは、少しでも一緒にいたいから。
お互いの気持ちに感謝をしつつ、高鳴る胸の鼓動を響かせながら家路を歩き始めた。
終