どうしてか弾く気はなかったはずなのに、練習曲の合間に弾きたくなった。
ロマンス ト長調。
和樹先輩が好きだって言った曲。
なぜか弾きたくなって、弦を構えた。
この気持ちを伝えたらいいな。
そう思ったのは本音で、嘘偽りのない言葉。
私にはやっぱり必要な人。
大事な人。
和樹先輩といると心が落ち着くの。
和んで、嫌な気持ちも忘れてしまう。
そんな気持ちも含めて、この曲に託した。
暫くした後、キィッと開く音にはっと意識を戻すと、そこに立っていたのは紛れもなく和樹先輩の姿。
奏でていた音を止め、その姿に見入っていた。
「香穂・・・ちゃん・・・・・・」
その呟きは私の中で何かを動ごかす。
持っていたヴァイオリンをヴァイオリンケースに預け、すたすたと和樹先輩の前に立った。きっと顔を上げて、見つめて。
「和樹先輩の、バカ」
気づいたらそう呟いてしまっていることに気づいた。
「ごめん」
「バカバカ。先輩のバカ。遅い」
「ごめんね、香穂ちゃん」
そう言うと和樹先輩の腕が背中に回ってぎゅっと抱きしめた。
久しぶりに触れるぬくもりに、思わず熱いものが込み上げてくる。
だめだ、ここで泣いたら、ダメ。
「電話するって言ったのに・・・・」
「ごめん。したらしたで、おれ、なりふり構わずずっとしゃべってそうな気がしたから・・・・・・」
「でも、一言ぐらい」
「一言でも、何でも止まらなさそうだったんだ。止まらなくて香穂ちゃんのことずっと引き止めてそうな気がした」
「それでも、良かったのに」
今度は私がぎゅっと抱きしめ返して言う。
じわりと滲む熱いものが頬をつっと流れた。それを隠すように和樹先輩の胸に額を預けて。
すると背中に回っていた和樹先輩の手がいつの間にか私の頬を包み込んだ。
「ほんとに、いいの?」
頭上から振る優しい言葉が、今まで淋しかった心に明るさを灯す。
「うん」
「長いよ」
「私も、和樹先輩と話していたい」
「おれも。香穂ちゃんと話、したい。抱きしめたい。触れたい」
「私だって、抱きしめたいし、触れたいよ・・・・・・」
離れ離れでも、それでも。
頬をぐいっと上げられて、和樹先輩の双眸に私が映っているのを確認する。
すると優しく微笑んで、唇が触れ合った。
もう、長い時間キスしていなかった事実に気づく。
こんなにも離れているのは初めてだった。
そっとゆっくり唇が離れると、一つ息をつく。
「おれ、香穂ちゃんのこと好きだよ。大好き」
そう言った和樹先輩の顔が優しくて、また一つ涙を流した。
「私も。大好き」
一言呟くと、もう一度キスを交わす。
長い、長いキスをして、体の芯から熱くなる自分に気づいたけれど、それは無視した。
好きだから。
触れたいから。
抱きしめたいから。
会えなかった時間を埋めるように、やさしいキスをして。
もう一度確認する、自分の気持ち。
きっとこの手をずっとはなさずにいたいと、願うのは、私なりの少しのワガママだとわかっていても――・・・・・・。
「ねぇ、ちょっと。こんなんじゃ声かけられないじゃない」
小声で言うのはOGの先輩。
「バカップル」
そう言うのは早紀で、それに誰もが頷いた。
「でも・・・・・・良かったです」
笙子は照れたように笑って、練習室の隙間から見える香穂子と火原を見つめる。
その笙子の笑顔に不覚にも男性陣は一瞬血迷いそうになった。
と、同時に浮かぶのは笙子の彼のこと。
二人は黙っていても、やっぱり目撃する人がいるせいか静かな噂となっていた。
それを表に出す勇気がないのは、笙子の彼に睨まれるのが怖いから。
いいよな、土浦梁太郎は。
そんな男心を推察して早紀が一言呟く。
「・・・・・・言っちゃおっかな」
そう言うと「さて、そろそろ練習だ」とか言って男性陣は逃げていった。
唯一その場に残ってしまったのは王崎。
「先輩、あの二人に声かけてくださいよ」
「え?」
「だって、私たち練習しなきゃ」
早紀の言葉にうーん、と困った顔をして、「そうだね」と頷く。
「じゃあ、あとお願いします。いこ、冬海ちゃん」
「あ、はい」
早紀は笙子を連れて行き、ぞろぞろとOGのメンツも持ち場へと戻っていく。
その後姿を見つめながら王崎は観念したように、ドアをノックした。
「二人とも、そろそろ練習始めるよ」
慌てて「はい」と答えると、二人仲良く手を繋いで歩くのを王崎は見つけ、くすっと笑わずにはいられなく。
二人の間にはどんな音楽が流れてるのかな、そんなことを不意に王崎は思い、二人の前を歩くことにしたのだった。
終