「あれ、日野さん、補習?」
「あ・・・加地くんかぁ」
ものの見事に大当たり、と苦笑いを浮かべて日野は加地を見上げた。
日野がやっているノートに書かれたそれを見てああ、なるほどと加地は思う。
「数学か。僕も苦手なんだよね」
「でも、加地くんは補習受けなくても大丈夫じゃない」
「でも結構僕も今回のはやばかったんだよ?」
「そうなの?そういう風に見えないなぁ」
うらやましい、そう言いながら日野は躓いている部分とにらめっこをしていた。確かに出された課題の部分はわからないでもないと加地は思う。
「日野さん、この部分なら僕もわかるよ。教えてあげようか?」
加地の言葉に二つ返事で返したのは言うまでもなかった。
「ったく、香穂子遅いんだって」
ぶつぶつと文句を言いながらまだ着慣れぬ制服を身に纏って衛藤は唇を尖らせた。
黄昏に染まる廊下はどことなく寂しさを覚えるものの、時間も時間だしなと結論づけて衛藤は階段を昇った。
普通科の教室にいるであろう少女を探して普段歩かない普通科の廊下を歩く。
歩いていると話し声が聞こえてきて、思わず衛藤は足早に駆け寄った。
だが、あと一歩のところでその足は止まる。
香穂子の声ともう一人、衛藤には聞き慣れている男の声が聞こえたからだ。
「ありがとう、加地くん。すっごい助かっちゃった」
「いえいえ。日野さんの役に立てたなら良かった」
「すごいわかりやすいんだもん。これで苦手って言う方がおかしいよ」
「そうかな?たまたまわかってる部分だからだよ。応用なんて全然わからないし」
「そうかなぁ。加地くんならわかりそうだけどね」
楽しそうに笑う声が教室から外の廊下まで聞こえる。
衛藤はよりにもよって加地だったことに苦虫を潰すような表情を浮かべた。
楽しそうな日野の声、それを聞いているのはなぜか悔しくて。
(何でイライラしなきゃならないんだよ)
苛立ちを隠せずにいる自分にもまた腹が立ち、衛藤は「バカじゃねぇの」と一人呟いた。
だが、所詮廊下にいるのは今衛藤一人だけ。
その存在に気づかれるはずもなく、返す言葉もない。
何やってるんだろう、そう思いながら踵を返した瞬間、声が突然降って来た。
「あれ、衛藤くんだよね。どうかした?」
今一番聞きたくなかったはずの声が間近に聞こえて思わず衛藤は眉間に皺を寄せながら振り返る。
「・・・・・・別に」
「あ、そっか。日野さんだよね。ちょっと待ってて。おーい、日野さーん」
「ちょ・・・! 何勝手なことしてるんだよ、葵さん!」
「あれ。日野さんに会いに来たんでしょ?そう顔に書いてるけど」
きょとん、と大きな瞳が不思議そうに尋ね、思わず衛藤は舌打ちをした。よりにもよって、この人に気づかれるなんて自分の未熟さに苛立ちを覚える。
「素直になりなよ。・・・・・・じゃないと、」
「じゃないと、何だよ?」
「僕が掻っ攫っても良いんだけどね」
「なっ・・・・・・!」
くすくすと笑う加地とは対照的に、言葉に詰まった衛藤は恨みがましく加地を見上げた。
「どうしたのー。加地くん」
何も知らない日野がひょこっと教室のドアから顔を出してのんきな声を挙げ、加地は軽く手を振って答えた。
「衛藤くん迎えに来てたみたいだから」
「あ、ごめんごめん、桐也。今支度するから待ってて」
慌てて教室の中へと出戻る日野を横目に加地は小さく笑いながら衛藤へと視線を戻す。少しばかり不機嫌だった衛藤の表情が少し柔らかいことに気づいて苦笑いを浮かべた。
衛藤自身は気づいていないのだろう。
そんな年相応の可愛い表情を見つけてしまうと、加地もまたお節介を焼きたい気分になった。
「日野さん、あれでも結構人気だからね」
「・・・・・・知ってるよ」
「油断しない方が良いと思うな」
「うるさい」
「まぁ、僕からの忠告はこんなもんかな?じゃあ、あとは二人でごゆっくり」
じゃあね、と言い置いて加地はひらひらと手を振ると廊下を歩き始めた。衛藤はただ黙ってその背中を見つめる。
「・・・・・・余計なことばっかり」
「何が?」
ぽつりと呟いたはずの声に反応したのは帰り支度を済ませた日野香穂子で、衛藤は日野を上から下まで視線を移す。
「桐也?」
「・・・・・・何でもない」
「そう?少し待たせすぎたよね、ごめんね」
素直に謝る日野に小さなため息を吐いて衛藤は言葉を口にした。
「そういうとこ素直だもんな、香穂子って」
「は?」
これだからある意味勝てる気しないんだよ、口の中で呟いた言葉は香穂子の耳に届かない。
いぶかしげな眼差しを向ける日野に、ただただため息だけが零れ落ちた。
頭をがしがしと掻いて日野へと視線を向ける。
こういうところもかわいいんだと思う自分は相当バカだ、と衛藤は思った。
これが恋というものの病なのか。
「俺以外の男なんか見るなよ」
小さな声音が呟いた言葉はささやかなる牽制。
「え?何?よく聞こえなかったけど」
「別に何でもない」
今度は大きな声できっぱりと言い返すと衛藤は日野を見下ろす。
何よーとぶつぶつ文句の言葉を並べる日野は拗ねたような声を出していた。
(何でこんなにも香穂子に振り回されてるんだか)
「なぁ、香穂子」
「何?」
「覚悟しておけよ」
「はぁ?」
いきなり何を言うんだ、と言わんばかりに眉間に皺を寄せて日野は衛藤を見上げた。おかしい顔をしていることを指摘するとそれはそれで日野の機嫌が悪くなるのはわかっているから、それ以上は口にしない。
まずは迷わない気持ちを持つことと。
軽く牽制をしつつ自分の傍から離れないようにすることと。
「どうかしたわけ?」
「別に。何となく宣戦布告?」
「宣戦布告?何で?」
不思議そうに見上げる瞳は自分だけを映して。
黄昏時の、人もまばらな時間。
想いを胸に衛藤は日野の手を取って歩き出した。
―――覚悟しておけよ、香穂子。
まずは、戦いのためののろしを上げて。
宣戦布告の一言を衛藤は告げた。
終