ずっとわがままだった私。
だから、もう一度最後だけ、わがままを言わせて。
泣き言なんて言わない、そう思ってもう一度弦を紡いだ時から決めていた。
音を奏でることへの執着がなかったわけではない。ただ、それに足る材料が香穂子には少なすぎた。
香穂子の音の良さは素直さだと師事していた先生に言われたことがある。
故に迷い始めるとすぐにそれが音に現れてしまうのだ。そのことに対しては香穂子自身が一番理解していることでもあった。
誰もが壁にぶつかる時がある。
恋人である火原でさえ何度もあった。それは隣で見てきたから一番知っていること。
どれだけ苦しいのか、香穂子は知らなかった。
音が出せない。
そのことがどれだけ胸をしめつけるのか香穂子はようやく今になって理解する。
音が出ない。
音を奏でることが恐い。
ヴァイオリンを弾くことが恐かった。
音を奏でることを辞めると、香穂子は今まで練習に費やしていた時間が空き、ただぼうっとする日々が増えた。
自然と音を避けるような生活が増えるも、音楽の街に音が耐える日などない。
香穂子は大学を休学しがちになり、周囲からも孤立していった。
ただ、そんな中で香穂子を庇ってくれていたのはウィーンの音大で教鞭を握っていたフランツ・シュヴァイツだった。
また戻ってくると彼は言って、香穂子が帰ってくるのを待っていた。
そして、火原も。
周囲に甘えている自覚は香穂子とてあったが、それでも音が出ないことには音楽をやっていても意味がないと思っていた。少し肌寒い秋の空の下、香穂子はただぼんやりとヴァイオリンケースを持って歩く。
灰色に滲んだ空は蒼い空を隠し、香穂子の気持ち同様にどんよりとした雰囲気を醸し出していた。
ふ、と香穂子は足を止めた。
近くの路地から聞こえてきたのは香穂子の大好きな曲。
ヴァイオリンの音色が香穂子の耳に響き、思わず止めた足を動かす。
演奏自体はさほど上手いわけではない。ところどころ間違った部分もあったのだが、何よりもその音が。
つたないはずの演奏に心を奪われていた。
奏でていたメロディーは『ロマンス ト長調』。
火原が好きだと言っていた、あの曲だった。
ただその音に耳を傾けて、香穂子は手に持つヴァイオリンケースの取っ手をぎゅっと握り締める。
胸の奥が熱かった。
香穂子の身体に伝わるメロディーは昔の自分を思い起こすには十分で。
気づいたらぽたり、頬を伝って涙がこぼれていた。
決して上手いわけではない。
でも、心を揺さぶる何かを持つそのメロディーに惹かれ、香穂子は涙をこぼす。
あぁ、私は弾きたかったんだ。
ふと言葉が香穂子の頭に降って来た。
上手くなりたかった。でもそれだけじゃなかった。
私が目指していた音がそこにはあった。
香穂子は持っていたヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出し、弓を構えた。
ただ、弾きたいその気持ちだけで音を出していた。
全ての迷いも香穂子は抱きしめる。
音が奏でられることがこんなにも嬉しいことだったなんて知らなかった。
苦しくても、それでもやっぱりヴァイオリンを辞めることなんてできないと言うことを香穂子は痛感する。
そうして想うことはただ一人の人へと向けた音。
私、和樹先輩が好きだよ。
だから、もう自由になって。
それが香穂子にとって最初で最後のわがまま。
終