ふと気づいたことがあった。大学生活真っ只中、女同士の飲み会である会話から香穂子は首を傾げた。
「いつの間にか『好き』って言ってくれなくなるんだよねぇ。デートもお決まりのコースだし、これって倦怠期かなぁ」
友人が投げた言葉に思わずカクテルを注いだグラスが揺れる。
香穂子はぼんやりと酔いの回った頭でそう言えば、と自分と彼氏である火原和樹とのやり取りを思い出していた。
いつだって優しくて、頼りになる先輩。
ちょっとかわいいところもあるけれど、かっこいい人。
高校の時はよく『好きだ』って言ってくれていたけれど、今はあまり聞かない。
そう言えば言わなくなったかも。
いつからかはわからない。
今現在、大学二年に上がった段階では既に火原の口から好きだと言う言葉をあまり聞かなくなったことに気づいて香穂子は愕然とした。
『倦怠期かなぁ』
友人の言葉が香穂子の思考回路に入ってきてぐるぐると回り始める。
そんな、まさか。
自分にはそんなことあるはずないってそう思ってたのに。
左手が少し重いグラスを軽く回しながら香穂子はこれまでのことを考え始め、一人軽くため息を吐いていた。
「すいません、火原先輩。香穂子が潰れちゃって」
「ううん。むしろ呼んでくれてありがと」
軽く火原は首を横に振って香穂子の友人に答える。
当の香穂子はと言うと酔いつぶれたまま、飲み屋の椅子にもたれ掛かっていた。
「なんか途中からお酒の勢いが早くなっちゃって。気づけばこんな感じになっちゃってたんですよね」
何かあったのかなぁと香穂子の友人は不安そうに香穂子を見つめる。
「うーん。とりあえずおれ連れて帰るね。ごめんね、お勘定とか頼んじゃって」
「休み明けに会った時に返してもらいますからいいですよ。むしろ香穂子連れて帰って頂ける方が助かります」
「香穂ちゃんは責任もっておれが連れて帰るから、大丈夫」
じゃあ頼みますね、そう言って香穂子の友人達は火原達を置いて先に飲み屋を後にした。
火原は香穂子を見つめると小さくため息を吐いて香穂子へと問いかける。
「かほちゃーん。立てる?無理ならおぶるけど、どうする?」
「うーん・・・・・・」
むにゃむにゃと半分寝ぼけている香穂子に話はどうやら通じないらしいことを悟った火原は飲み屋の電話でタクシーを呼ぶと、一人で暮らしている自分のマンションに行くよう指示をした。
腕の中で眠っている香穂子はあまりに無防備で、火原は思わず軽く眉間に皺を寄せる。
これだから油断できない、と心のどこかで感じながら自分の家の前でタクシーを降りると香穂子を連れて自分の部屋へと足を踏み入れた。
香穂子の友人から呼び出されてから一時間近くが経った部屋は部屋の明かりがつけっ放しで、それこそCDをつけたまま家を出たらしい。
帰ってきたらCDは最後のトラックが表示されていることに気づいた。
自分のベッドに香穂子を寝かせると、火原はベッドサイドに腰を下ろし、はあとため息を吐いた。
「どうしたんだよー、香穂ちゃん」
右の人差し指で香穂子の頬を突くと、香穂子はうーんと眉間に皺を寄せて唸った。
だが、香穂子はすぐに夢の世界へと旅立ったらしい、寝顔をさらしたまますやすやと眠っている。
何かあったんだろうか、火原はそう思うも今までの香穂子の言動からそう言った悩みを見つけることができなかった。
今日の昼だって笑って話をして、友達と飲み会なんですって言って楽しそうにしていたのに。
「何かあったの、香穂ちゃん」
おれじゃ力にならない?
ぽつりと零れ落ちた言葉があまりに淋しくて、火原はベッドに下ろしていた腰を上げた。
きっと香穂子が起きてくるまで真相はわからないだろう。
諦めた火原はさっさと課題をやってしまおうとテーブルの傍にある椅子に座り、鞄の中から教科書と譜面を取り出した。
やけに明るい、と思いながら香穂子はうっすらと瞳を開く。
ぼんやりと映った視界は白い天井を映し出していた。
あれ、ここどこ?
軽く首を傾げながら瞬きを繰り返した。
すうっと息を吸って吐くとゆっくりとあたりを見回す。見回しながら、見慣れた場所だと言うことにすぐ気づいた香穂子は、部屋の主を探し始めた。
真剣にシャープペンを走らせる火原の横顔を確認すると小さくほっと息を吐く。
そして自分がどうして火原のベッドで寝そべっているのかを考え、答えにたどり着くと香穂子はもぞ、と動き出した。
香穂子が動いた気配に気づいたのだろう、火原もゆっくりと香穂子へと瞳を向けると視線が交わった。
「和樹先輩・・・・・・」
「起きたんだね、香穂ちゃん」
水飲む?
火原の提案に香穂子は小さく頷くと火原は腰を上げて流し台へと足を向けた。
冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを取り出し、グラスに水を注ぐ。少しばかり冷たい水がたぷん、とグラスの中で揺れた。
それをじっと見つめていた香穂子は不意に友人の言葉を思い出す。
『倦怠期かなぁ』
言葉が頭の中で響き、香穂子は不安に襲われた。
そんなことない、そう思うも自信が持てなくてぎゅっと瞳をきつく閉じるとゆっくり瞳を開く。
「はい、香穂ちゃん」
差し出されたグラスを受け取り、香穂子は冷たい水を体に吸収し始めた。
体が水を欲していたことに香穂子は初めて気づくと水を一気に飲み干した。
「香穂ちゃん?」
ぐい、と飲み干した香穂子は空になったグラスをじっと見つめて小さく息を吐いた。
火原は少し様子のおかしい香穂子を怪訝そうな瞳で見つめる。
ゆるゆると香穂子は顔を上げてじっと茶色の瞳を見つめた。
―――いつから好きって言わなくなったんだろう。
いつからだったかなぁ、香穂子は思いあぐねるも思い出せない。
じっと見つめる香穂子はあまりに真剣で火原はどうしたものかと一人悩んでいた。
酔っているから、とかそう言うわけではないらしいことは火原もわかる。
でも何を考えているのか、火原にはわからなかった。
わからない、でもわかりたい。
火原はゆっくりと膝をついて香穂子と視線の位置を同じくらいにするとそっと抱きしめた。
驚いたのは香穂子の方だった。
火原が急に香穂子を抱きしめたことに目を大きく開く。
驚いたのと、不意にこみあげた不安と嬉しさとぐちゃぐちゃに混ざり合った想いが香穂子の胸をかきむしった。
ぎゅっと香穂子は火原の背中に回した腕を強くすると、火原はそれに答えるように抱きしめ返す。
それが、嬉しかった。
嬉しくてぽろ、と瞳から涙が零れ落ちる。
「・・・・・・和樹、先輩」
「うん?」
「私、和樹先輩のこと、好きだよ」
「香穂ちゃん?」
急に好きだと言われて、火原の胸がことりと動き出す。動揺しないわけがなかった。
「和樹先輩が私のこと嫌いになっても、好きだから」
ぐす、と鼻を鳴らして言う香穂子に火原は瞬きを繰り返す。
どうしてそんな結論になるのか、火原は小首を傾げると眉間に寄った皺が深くなった。
「香穂ちゃん、どういうこと?」
何でおれが香穂ちゃんのこと嫌いになるの。
意味がわからないと火原は尋ねる。
「・・・・・・だって、和樹先輩、好きって言わなくなったなぁって思ったから」
「だから嫌いだって思ったわけ?」
「そうじゃないけど、友達が『倦怠期』だって言うから」
漸く火原の中で埋まらなかったパズルのピースがぴったりとはめ込まれた。
ああ、なるほど。
だから香穂子は酔い潰れたのか、そう思ったら火原は香穂子を抱きしめた手を緩め、香穂子を見つめて目尻に残っている雫を吸い寄せる。
「確かに昔に比べたら言わなくなったかもしれないけど、だからって香穂ちゃんのこと嫌いになるわけないよ」
いつだって香穂子の存在があったから火原は頑張ってこれた。
香穂子が好きだから、好きでいて欲しいから色々といつも考える。
香穂ちゃんとあれがしたい、これがしたい。
夢は膨らむ一方で。
「・・・・・・確かにそうだったかもね。香穂ちゃんに『好き』って言ってない。でも、おれ『好き』だけじゃ物足りなくなってるからかもしれない」
「え?」
「『好き』よりも『愛しい』ってそう思うんだ。大好きだって、大好き以上なんだって」
「和樹先輩・・・・・・」
『好き』だけじゃ物足りない。多分、ぴったりな言葉は。
「『愛してる』、香穂ちゃんのこと。だから好きって言わなくなったのかもね」
くすくすと笑いながら香穂子の額にキスを落とした。
香穂子はくすぐったそうにキスを受け止める。
「・・・・・・まだ物足りない?」
「ううん。大丈夫。私も『好き』だけじゃ物足りないからすごくわかった」
「そっか。よかった」
「ごめんなさい、迷惑掛けちゃって」
もう帰ります、そう言って香穂子は時計を見上げるととうに終電のない時間を過ぎていることに気づく。
「あ」
「・・・・・・先にね、香穂ちゃんのお母さんに電話しておいたよ。香穂ちゃん酔ってるから一晩泊めますって。そう言ったら「ごめんなさいね」って言ってた」
「・・・・・・すいません、何から何まで」
すまなさそうに体を小さくして謝る香穂子に火原はううん、と首を振る。
「今日はもう少し話しようよ、香穂ちゃん」
いつになく長い時間を二人で共有しよう、火原の提案に香穂子は小さく笑って答えた。
「私も和樹先輩とたくさん話がしたい」
いつもと違って淋しい夜の別れはないから。
二人で一緒に話をしよう。
白く輝く月が照らす夜、明るく淡い光が静かに闇夜を見つめる時間。
たった二人の愛おしい時。
終