ぐぅ。
きゅるるる。
ぐぅと再び腹の虫が鳴り、思わずお腹を摩る。
繰り返し鳴る音に思わず眉間に皺を寄せるも、それに対して一向に改善されることはない。
むしろ貧しさを感じるだけだった。
火原和樹、今年で17になる修行中のトランペッター。
トランペットを吹いては旅を続けていた。
だが、それも二日前に旅費も底を尽き、食事や寝床にも恵まれないまま一日が過ぎてゆく。とうとうどうしようもない状態となり宛てもなくさ迷っているところに、一つの椅子を見つけた。疲れて歩くことももうできない。ただ、座りたいそれだけ。
おれ、明日には死んでるかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えながら星の輝く空を見上げる。
無数の星が白く輝き、火原の目を奪う。
明日にはこの星になるのかもしれない、そう思うとまた何もする気がなくて、
トランペットケースを自分の膝の上に乗せると一人突っ伏していた。
カラン。
背後から鐘の音が静かに火原の耳に響く。
その鐘の音が聞こえるが、火原は動く気力さえなくそこに誰かがいるなんて考えていなかった。
「あの・・・・・・」
初めて自分を指していることに気づいて顔を上げる。
自分の目の前にいたのは一人の少女。
不思議そうに火原を見つめ、その少女は口を開いた。
「どうしたのですか? 何か困ったことでも?」
「・・・・・・あ」
火原が口を開き、その少女を見つめる。そのドアの向こうからはいい香りが火原の鼻をくすぐった。
食べ物だ。しかもスープの香り。
そのスープの香りとともに香るのは茶葉の香り。
火原が気づいたときには身体が勝手に腰を浮かせ、口が先走っていた。
「あの!おれ、火原和樹って言います!トランペットの修行してて、自分の演奏でお金を稼いでたんだけど、うまくいかなくて、お金も底をついて。一昨日からご飯全く食べてなくて。おれ、何でもしますから、ご飯食べさせてください!」
驚いたのだろう、その少女は瞬きを繰り返してその大きな瞳を見せる。
そしてくすっと微笑むと踵を返し、ドアを開ける。
一瞬、火原はだめなのかなと不安が過ぎったがその少女は微笑を見せた。
「店のあまりもので良かったら、どうぞ」
そうして少女は火原を家の中へと招き入れた。
火原は大事そうにトランペットを抱えながら、その少女の言葉に甘える。
おれ、絶対にこの子のために何かするんだ!
優しい少女の好意がひどく嬉しくて、火原は泣きそうになっていた。
まだ見捨てられてない、そんな気持ちを抱えて火原は深い闇を仰ぐ。
星が静かに煌いていた。
差し出されたのはスープ皿。その中にあるのは美味しそうなビーフシチュー。
何でもこの店の定番だと言う。そしてもう一つ出してくれたのはカツサンドだった。
「おれ、カツサンド大好きなんです! もちろんビーフシチューもだけど。おれ、ホント嬉しい!」
美味しそうに頬張る火原に少女はくすくすと笑っていた。
こんなに美味しそうに食べる人はいないのかもしれない。
楽しそうに笑う少女を見つめ、火原はまたビーフシチューを口に運んでいた。
「私、日野香穂子と言います。あなたはトランペットを吹くと言っていたけれど・・・・・・?」
「はい! おれ、色んなところで修行してるんです。それでお金稼いで、また旅をしての繰り返しなんです」
「そうなんですね。もし良かったらでいいので、後でトランペット吹いて頂けますか?」
香穂子の申し出に火原はうんと大きく頷く。
「おれのトランペットでよかったら聴いてください! それでこのお礼の一つにでもなれば嬉しいし。あ、もちろん何でもします。このお礼は必ずするので!」
慌てて言葉を付け加えた火原に、香穂子は一瞬きょとんとした瞳を向けるもすぐにまた顔を緩めた。火原は二日ぶりに食べた食事に満足して皿を平らげると、口の周りを吹き、口の中を水で漱ぐ。ん、と喉を鳴らして火原はトランペットケースの中に大事に仕舞っていたトランペットを取り出した。
シルバー色の火原の相棒。
「んじゃ、まずは『ガヴォット』から」
マウスピースに口をつけて火原は音色を奏で始める。
軽快で楽しそうな音に香穂子の頬は緩んだ。
弾む音色が香穂子の身体を小さく揺らし、火原は楽しそうに身体を弾ませた。
音色は終焉へと向かう。火原は口につけていたマウスピースを離した。
香穂子は曲の終わりとともに拍手をする。
久しぶりに聴いた拍手の音に火原は少しだけ喉を詰まらせた。
瞳が自然と緩み、泣きそうな顔になる。
こうやって拍手してもらえるのはやはり嬉しいなぁと思ってしまうのだ。
「・・・・・・じゃあ、これ、やりませんか?」
香穂子は腰を上げると火原の前に一つの楽譜を指し示す。
曲の名前は『アヴェ・マリア』。
トランペット用の楽譜ともう一つあるのはヴァイオリン用の楽譜。
「もしかして・・・・・・」
「私も音楽好きなんです。私の場合はヴァイオリンですけど」
おかしいかな、と香穂子はヴァイオリンケースを持ち出して言う。
火原は思い切り首を横に振って「全然おかしくなんかないよ!」と否定した。
香穂子は譜面台の上に楽譜を並べる。火原はどきどきと高鳴る心臓の鼓動を感じながらトランペットを構えた。
香穂子もまたヴァイオリンを肩当にあてて弓を構え、瞳で合図を送る。
そうして奏で出したのはヴァイオリンとトランペットの異色のコンビネーションの音色。
火原の耳に降ってきたのはやさしい音だった。
波紋のように火原の心に響き渡り、ちらりと香穂子を横目で盗み見る。
香穂子の丁寧な音色と火原の奏でるトランペットの音色が空間を音楽で満たしていく。
アレンジされた『アヴェ・マリア』はどこまでも澄んでいた。
香穂子はトランペットの音色に耳を澄ませ、こんなにもトランペットで優しい音色が出るものなのかと感心した。
火原が修行しているというのは間違いではないのかもしれない。
そうであるならば。
弓が弦を弾き、マウスピースが奏でる音色に終わりが訪れる。
二人とも音を静かに止めるとふうっと一つ息を吐く。互いの額に少し汗が滲んでいた。
「すごい! おれ、久しぶりに合奏したけど面白かった!」
わくわくと興奮し気味に火原は香穂子へと気持ちを伝える。
香穂子もまた「私も楽しかったです!」と返した。
香穂子は火原の瞳をもう一度じっと見つめ、その瞳の先を見つめる。
音楽を求める目にきっと迷いはない。
「火原、さんはこれからどうするんですか?」
「おれ?おれはまた稼がないと。修行に出れないし」
恥ずかしいんだけどね、笑って言う火原に香穂子の唇はきゅっと結ばれた。
ごくりと喉が音を鳴らす。
「もし、良かったらですけど」
香穂子の真剣な表情。火原はきょとんと瞳を瞬きをする。
「うちで働きませんか? 住み込みで」
「へ?」
火原にとって寝耳に水なのだろう。
ぱちぱちと瞬きを繰り返して、香穂子の顔をまじまじと見つめる。
「それ・・・・・・って、本当?」
「はい。ただし、ウェイター兼トランペッターとして。どうですか?ちゃんとお給料も払いますから」
願ってもない申し出に火原は目を丸くした。
今、おれ夢の世界にいるなら戻って来い、と言わんばかりに火原は自分の頬をつねる。
つねるが、傷みが火原の頬に伝わり「痛い」と呟いた。
「本当にいいの!? おれ、何でもするけど、本当に!?」
何度も聞き返す火原に「はい」と笑顔で香穂子は返した。
「改めまして、日野香穂子です。歳は16歳。三人きょうだいの一番下です。
両親が残してくれたこの店のオーナーやってます」
香穂子は自己紹介をする。
火原は「ええっ!?」と声をあげた。
「俺よりも下なの!? え?って親がいないの!? それでおれいてもいいの?」
「はい。それは火原さんを信用してるからです。音が何よりもその証拠。私はその音を信じます」
「日野さん・・・・・・」
「さんはやめてください。聴き慣れなくて恥ずかしくて。兄がいるので、時々帰ってきますけど、基本的には姉のほうがうちにいます。今は仕事であまり帰って来ないですけど」
「じゃあ、日野ちゃんで。おれのことは和樹でいいよ」
「では、和樹さん、で。両親が使っていた部屋を使ってください。明日は朝早いですが起きられますか?」
香穂子の問いに火原は首を何度も縦に振って頷いた。
「もちろん! おれ、朝は走るのが日課だから」
「では、朝5時半にここに集合です。シャワーは自由に使ってください。
詳しいことはまた明日教えます。もちろん、トランペットも忘れずに持ってきてくださいね」
じゃあ、部屋を案内します、そういって香穂子は火原の前に立って案内する。
初めて出会った少女は店のオーナーで、自分よりも年下。
しっかりもので音色がすごく優しい、でもどこかで少し淋しさを漂わせるそんな音。
火原和樹、17歳の運命の歯車はたった今回り始めた。
包み込むのはお茶の香り。
初めて感じた沸き立つ想いと降ってきた音色に火原は笑みを浮かべる。
―――これが火原と香穂子の出会いだった。
1.降って来たのは音でした(終)