「やっぱり遅くなってしまったね」
「仕方ないと思います。でもその代わりすごく良い演奏が聴けたから私は満足ですよ」
ぽっかりと浮かぶ月を見上げながら榊大地は軽くぼやいた。そんな大地を見つめながらかなでは微笑む。
学校が終わったその足で演奏会のチケットがあるからと大地に誘われたかなでは二つ返事で返した。
オーケストラの演奏を聴いたかなでの心はふわふわと宙に浮いている。
「そう? ひなちゃんに喜んでもらえたなら良かった」
「はい。すっごい満足しました。人の演奏を聞くとやっぱり刺激されちゃうのかな。すごくヴァイオリンが弾きたい気分です」
無理ですけど、と苦笑するかなでに大地はぽんと頭を軽く撫でる。そう言う仕草も全部何もかもが愛しくて仕方がない。
一つ一つの仕草に心躍らされている自分に驚きながらも大地はかなでの手を取って歩き出す。
手を握られたかなでは俄かに顔を紅く染めながらそっと手を握り返した。少しはにかみながら、でも嬉しそうなかなでの表情に大地は心を奪われる。
「・・・・・・君には敵わないよ」
「それは私も一緒ですから」
ふふっと微笑んでかなでが返すと大地は軽く肩を竦めた。どうしてこうも反則的に可愛らしいのか。
きっと理性がなければ今頃吹っ飛んでいそうなくらいにかなでを抱き締めたくなる。
その気持ちを抑えながらかなでと二人夜道を歩いていた。しんと静まり返った住宅街はまるで二人だけの世界のようで、その中に一つだけ白く輝く月が浮かび上がる。
静けさの中で肩を並べて歩いていると漸く見えてきた寮にほっと息を吐いた。
もっと本当は一緒にいたい。でも、一緒にいればいるほど手離したくなくなる。そのせめぎ合いの中で大地は何とか理性を保とうとしていた。
「もう寮かぁ・・・・・・」
軽く項垂れるかなでに大地は半分複雑な想いを抱く。同じように残念だと思ってくれていることが嬉しい反面、そんなかわいいことを言われると否が応でも連れて帰りたくなるから。
「また明日も会えるよ」
「そうですけど・・・でも、もっと大地先輩と一緒にいたいのに」
ぽつりと呟いた言葉に大地は苦笑しながら頭を撫でた。
「・・・・・・ひなちゃん」
「はい?」
「本当にかわいいこと言うんだから、俺の心臓がいくつあっても足りないよ」
「・・・・・・? どうしてですか?」
「それを俺に聞くんだね、ひなちゃん」
はは、とがっくり項垂れた大地にかなでは困惑の表情を浮べる。どうしてそんな表情をするのかわからなかったらしいかなではおろおろと大地を見つめた。
寮の前に着くと大地は握っていた手を離そうと一度手を緩めようと思ったのだが、まだ離したくないかなでの手が大地を捕らえていた。
もう少しだけ、そう言われているようで。
「ねぇ、ひなちゃん」
「・・・・・・はい」
そっと耳元に顔を近づけて大地はかなでへと言葉を囁く。吐息の掛かる距離で口にした言葉はかなでの心臓にドキドキと音を響かせる。
「そう言う言葉は今言っちゃダメだよ。掻っ攫いたくなる」
「だ、大地先輩・・・・・・」
頬を一気に赤に染め上げてかなではぱちぱちと瞬きを繰り返すかなでの柔らかな頬に大地はキスをそっと落とす。
「きゃ・・・・・・」
「おやすみ、ひなちゃん」
良い夢を、そう告げて大地は今度こそ手を離した。かなでは呆けた状態で「あ、はい、おやすみなさい」と小さな声で答える。
ふらりと踵を返して寮へ足を向けるとドアに手を掛けた。ゆっくりと振り返り、門の前に大地がいるのを確認するともう一度ぺこりと頭を下げて「おやすみなさい」と言う。
大地は苦笑いを浮べたまま「おやすみ、ひなちゃん」と告げるとドアの向こうへとかなでは姿を消した。
「無防備すぎるからこれくらいのことをしないとね」
くすくすと笑いながら大地は自分の家の方向へと足を向けて歩き出した。
夜の闇が静かに星空を描く。ふらりと頬を撫でた風はどことなく秋の色を濃くしていたのだった。
一方、かなではと言うと玄関の前でぼうっと立ったまま動けずにいた。
何、あれ。
そっと落とされたキスにかなでの思考は追いつかない。
頬にまだ熱が残っているようでそっとそこにかなでは自分の手で触れる。
柔らかな感触が今も尚鮮明に覚えていた。
「明日どんな顔して会えば良いんだろう・・・・・・」
途方に暮れながら、でもどこかでそれが嬉しくて仕方ない気持ちが胸に疼いていることにかなでは気づいていた。
嬉しい気持ちが少しずつかなでの奥底でじわりと熱を持ち始める。
「ずるい、大地先輩・・・・・・」
口の中でそっと呟きながらかなではふらりと自分の部屋へと足を向けて歩き出した。
今夜は眠れないかもと思いつつかなでは自分の部屋へと足を踏み入れる。
ふと視界に入ったのは開けっ放しのカーテンの先にある白い月。
月夜の魔法に掛かったかのような、不思議な夜を過ごしながらかなではそっと瞳を閉じて深呼吸をしたのだった。
おやすみなさい、大地先輩。
どうか良い夢を――――。
終