この気持ちを自覚してから、初めて生まれた戸惑いだった。
その日の昼間はとても暑くて、正直ヴァイオリンの練習をすることさえも億劫になっていたこともあり、かなでは購買へ飲み物を買いに行った。
ファイナルまであと少し。正直時間はあまりないこともあって気持ちだけが少し焦っていたという自覚もあった。
飲み物を買い終えて練習室へと戻るその足が少しばかり早くなったのはちょっとでも茹だるような暑さを吹き飛ばしたいためだった。
ばたばたと廊下を走るその姿を見つけたのは偶然にもヴィオラ奏者の榊大地だった。
「ひなちゃん?」
名前を呼ばれ、思わず足を止めて振り返る。すぐそこに立っていた人を見つけて「あ」と声を漏らした。
「大地先輩!」
「何かあった?」
「え? いえ、何もないんですけど」
「廊下を走っていたじゃない? 何かあったのかと思ったよ」
苦笑交じりに言う大地にかなではああ、と頷いた。手に持っているジュースを見せながらかなでは説明する。
「冷たいジュース飲んで少しは気合を入れようと思って。暑くてやる気がイマイチでないんですよ」
困りますよね、とへらと笑いながらかなでが返すと大地は「まぁ、確かに暑いね」と返した。
毎日茹だるような暑さが続いているため、皆少し疲れ気味でもある。そんなかなでの表情にも少し疲れの色が濃く滲んでいたことに大地は気づいた。
だが、当の本人はいつもどおりだと思っている節がある。ふむ、と大地は一人顎をしゃくると「ひなちゃん」と名前を口ずさんだ。
「はい?」
「ちょっといいかな?」
「あ・・・はい」
手招きされ、素直にかなでは応じたのだが、すぐにそんな自分に後悔する。
近づいたかなでとの距離を更に大地は縮めてかなでの頬に触れた。不意打ちに近い形で大地の手が触れたため、一気に体中の熱が頬に集まる。
一体何がどうしてこうなっているのか?
暑さで少し参っているかなでの頭にはそれを考えるほどの余裕は残っていなくて、脳裏にはたくさんの「?」マークを浮べて半分パニックを起こしていた。
大地は暫しかなでの顔を覗き混むと、ふむ、と何か考え込む素振りを見せる。
それを見たかなでは一気に熱が不安の汗へと変わり始めた。
「あ、あの・・・大地、先輩?」
「うーん、やっぱり少し顔色が悪いよ。今日はもう練習をやめて休んだ方がいいって俺は思う」
「え?」
「少し熱っぽい感じもするしね。・・・ひなちゃん、自覚ないでしょう?」
「へ? ね、熱?」
「確かに今日は暑いけれど、昨日に比べたらまだマシな方なんだよ。それを暑いって言うことは熱があるっていうこと」
「でも、私・・・」
焦る気持ちが大地に抵抗を見せる。大地は頬に当てていた手を華奢なかなでの手を握って歩き始めた。
頬にあったはずの熱が手に集まり始める。触れる箇所が、熱い。
「ひなちゃんの気持ちもわかるよ。練習したいって言う気持ち。でも今の状態でやればもっと悪化する」
「・・・・・・」
「今日はジュースを飲んだたら帰ろう。俺がちゃんと送って行くから」
「でも、大地先輩も練習したりとか・・・」
しますよね、と続くはずの言葉が途切れたのは大地の足が止まり、かなでへと振り返ったから。
「迷惑だと思った? そうだと思うならそれは違うよ。俺はひなちゃんの力になりたい」
真っ直ぐに向けられる視線が熱を帯びる。
真面目な大地の顔にかなでは上手い言葉が見つからず、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
こんなに真っ直ぐ見つめられたら、嫌でも自覚した気持ちを抑えることが出来なくなってしまう。
熱を帯びた心が震えながらもその瞳を真っ直ぐに受け止めた。
「わ・・・たし・・・・・・」
「ああ、ごめんごめん。熱があるのにね。涼しい練習室へ行こう。どこの部屋使ってる?」
手を握りながら大地はふっと視線を緩めてかなでへと謝罪の言葉を口にした。
緊張していた空気が緩み、かなではほっと息を吐く。
「2階の一番手前の部屋です」
「ああ、あそこか。了解、じゃあ一緒に行こう」
再び歩き始め、かなでは繋いだままの手を見て恥ずかしさと共にくすぐったい気持ちを抱えて笑みをこぼす。
どうしていいのか正直わからない。
でも、照れくさいけれど胸の奥が熱くなるのは『好き』と言う気持ちを自覚しているから。
この人に惹かれているから。
汗ばむ手のひらをぎゅっと握りながらかなでは小さく微笑む。
いつか伝えたい、この気持ちを。
触れた部分が熱を持って密かに伝える。
―――あなたが好きです、と。
それを口にする日はもう少しだけ先の話。
今はこの熱だけが知っている、秘密の言の葉。
終