初めてだった。男の人にこんなにも強く抱き締められるのは。
ちょっと苦しいけれど嬉しいから、かなではもう少しこのままでいたかった。
暗くなり始めた校舎の一角で、黄昏を背に二人の短くも長い時間がそこにはあった。
抱き締められたのはほんの偶然。
夏の終わりに付き合い始めた一つ上の学年である榊大地と二人で部室に残っていた時のことである。あと数ヶ月もしないうちに三年生は引退することになるから、と大地は部で請け負っていた会計等の仕事を片付けるために残っていた。かなではと言うと大地の傍らで次にオケ部でやる曲の譜読みを始めたのは少しでも大地の傍にいたかったから。
今日は部活のある日ではないため、部室に来るのは物好きな人ぐらいだ。しかも定演の曲がやっときまったとあれば、各々で練習を始める。そうなるとこの小さな部室には人はほとんど寄り付かなくなるのだ。それを見越して大地は静かに電卓を指先で叩きながら帳簿に記入していた。ささ、とシャープペンの走る音が心地良い。かなでは譜面を読みつつ、大地のシャープペンの音に耳を傾けていた。
大地も大地でかなでが時折走らせる鉛筆で譜面に書き込む音はどこか心地良かった。二人だけの時間、それがずっと続けばいいのにと思うどこか甘酸っぱさを残す想い。
ちょっとだけ残る緊張感はいつ崩れてもおかしくはないのは大地もかなでも気づいてはいたけれど、知らないふりをする。その均衡が崩れたのはかなでの持っていた鉛筆がひょんなことで転がり落ちたことだった。軽く鉛筆を回していたかなでの指先から落ちたのである。
「あっ」
かなでの発した音に反応した大地は、え、とかなでの視線を追った。その先にあったのは転がり落ちた鉛筆。かなでが腕を伸ばして取ろうと屈むと、バランスを崩して床へと瞳が映し出す。それを見つけた大地が間一髪のところで腕を引き寄せた。
ふぅ、と一息吐くとほっとしたのかかなでも小さな息を吐いた。
「ひなちゃん・・・焦るよ」
苦笑交じりの声は少し安堵の色を濃くした。
「あ・・・っと、えと、ごめんなさい、大地先輩」
「いいよ。ひなちゃんが怪我しなかったなら」
でもやっぱりごめんなさいと謝るかなでに大地は「じゃあ」と一言かなでに提案をした。
「心配させた代わりに、抱き締めてもいいかな?」
「へ?」
かなでの間抜けな声に大地はぷーっと吹き出しそうになるのを堪える。あまりにも無防備な声は大地のいたずら心を刺激した。
「嫌だと言っても聞かないから」
楽しそうに笑みを浮かべて大地はぐい、と軽くかなでを引き寄せるとそのまま後ろから抱き締めた。え、どうしたんですかと慌て始めたかなでに大地はくすと笑う。
「好きな子を抱き締めたいというのに理由は必要?」
「大地、先輩?」
「ひなちゃんが嫌だというなら離すよ。無理強いはしない。でも、」
嫌じゃなかったらもう少しこのままでいて、と耳元で囁く大地の声が俄かに変化した。最初はどこかいたずら交じりの声が低い男の人の声へと変わる。一瞬、ドキと鳴った心臓が早鐘のように鳴りはじめたことにかなでは気づいたものの、その心臓の音が嫌じゃなかった。
むしろ。
「私、嫌じゃないです」
好きな人に抱き締められるのが嫌な人なんていない。
大地とは一緒にいられる時間に制約がある。ましてやこれからどんどん短くなるのはわかっていた。その寂しさを埋めるようにかなでは首に回された腕にそっと触れる。
一瞬だけぴくりと反応したのはかなでが大地の腕に触れたから。驚いたもののそのままでいたのは大地もそれを受け入れてくれているという証拠だ。そっと大地の腕をかなでの両手が掴んだ。かなでの指には収まらない太くて男らしい腕。その腕がいつも支えているのはヴィオラと言うヴァイオリンよりも少し大きな弦楽器。その奏でる音色はかなでのお気に入りでもある。大地の進路は知っているし、それについて文句はない。
でも暫くその腕から奏でられるヴィオラの音がないと思うと少しだけ淋しかった。その淋しさに気づいているのだろうか大地は、とかなでは思う。
「大地先輩だから良いんです」
かなでの声に反応するように大地の腕が少しだけ強くなった。ちょっとだけ苦しさを覚えたものの、かなではその腕に身を預ける。頼もしいその腕がかなでは好きだ。決してそこまで強くせず、でも力強く抱き締められることにかなでは驚きながらも胸の奥に熱いものが沸き起こる。そうやって自分を求めてくれることが嬉しくて。
「ひなちゃん」
「はい」
「君が好きだよ」
「・・・・・・私も、大地先輩のことが好きです」
少しでも長く一緒にいたかった。ずっとなんて言えないけれど、傍にいたいと思う。
それはかなでも大地も同じ気持ちだと知るのは互いの心臓の音が身体に響いていたから。
どうか、もう少しだけ。
もう少しだけ一緒にいられる時間を下さい。
もうすぐで下校時間が訪れようとしている。
黄昏に染まる部屋で二人の影が重なったまま、時は静かにその時間へと誘い始めていた。
終