夏の雨はやっかいだとわかっていたものの、榊は自分自身が雨に打たれるなど思っていなかったため、自分の考えがいかに甘かったかをこの目の前の少女に言われて初めて気づいたような気がした。
「わかってますか? だから傘持って来て下さいって言ったのに」
「でもひなちゃん。これは不可抗力だよ。ここまでの距離はそこまで遠くないし」
「だから甘いんです。だって空は黒くなってたでしょ?」
「いや、確かにそうなんだけど・・・・・・」
いつもはほややんとした感じの少女が、この外に広がる灰色の雲のように厳しい言葉を榊に投げる。
そう言えば確かに音楽のことになるとはっきりとものを言う子ではあったけれど、まさかこう言う時もそうだったなんてなぁと榊は若干自分の考えの甘さを自覚せざるを得なかった。
今になって親友である律が「かなでは怒ると怖い」と言っていた意味がわかったような気がする。
「カッパか無駄かもしれないけど傘はしてくださいってあれほど言ったのに」
「でも、雷鳴る前には着いたから許してよ、ひなちゃん」
「ダメです。とりあえず服は律くんの借りてきますから、その間にお風呂に入ってください。さっき沸かしておいたので」
きっぱりと言いきられた榊は「はい」と素直に頷いた。ここはかなでの言葉に従っていた方がいいらしい。
じゃあ、とかなでは言うと律たちがいるであろう男子寮へと足を向けて歩き出した。榊はかなでとは反対の寮の風呂場へと足を向ける。
あったまって出てこなければもしかするとかなでは口もきいてくれないんじゃと思うくらいに凄味があった。
律は今頃苦笑いを浮かべているに違いない。
「呼んでくれたのは嬉しいんだけど、まさかお説教つきになるなんてね」
苦笑いを浮かべながら榊は風呂場に辿り着くと濡れた服を脱いで洗濯機に入れ、風呂の戸を開けて中へと足を踏み入れた。
「あれ、律?」
「小日向が着替えるように言っていた。あと、服は今洗濯して干してる」
「ごめんな、律」
榊が風呂から上がると律がバスタオルと着替え一式を榊に手渡し、榊は素直にそれを受け取って身体を拭く。
腕を組みながら律は小さな苦笑いを浮かべていた。
「今頃小日向があたたかいスープを作っているはずだ」
「ひなちゃん、ある意味そういうところは気が利くんだよなぁ」
「そうだな。まぁ、小日向は多分自分に対して一番怒っているんだろうと思う」
「ひなちゃんが?」
「ああ。お前を安易に呼んでしまったがために、傘も差さずにびしょ濡れでここに来てしまっただろ。簡単に呼ぶんじゃなかったと今頃思ってるだろうな」
「それは、俺が悪いんだと思うんだけど」
「でも、小日向はそう言う奴だ。響也でも同じ答えを言うだろう。それに、」
律が言いかけた言葉を止め、その言葉の先を知りたい榊は「それに?」と言葉を促す。
律はとめた言葉を再び口を開いて話し始めた。
「昔、あるんだ。小さい頃、響也と二人でびしょ濡れになって、かなでが泣いたこと」
「え?」
予想しない答えに榊は訝しげな眼差しを律へと向けた。律は小さな頃の思い出をそっと唇で綴る。
「遊ぼうよと言ったかなでの言葉に乗ったのは雨が降る直前で、雨が降っても響也と二人で小日向の家に行ったんだ。傘も差したと思うんだが、傘が傘の意味を成さなかった」
「ああ・・・なるほど」
「玄関先で会った小日向の顔は今でも覚えてる。どうしようと思った不安と、そうさせてしまった自分の失態と。ただただ泣いて謝っていた。ごめんね、ごめんね、と。きっとそれを思い出したんだろうな」
「そうかもしれないな」
そんな思い出があるのか、と思うと榊は少しだけ羨ましくなる。
榊の気持ちがわかるのだろう、律は言葉を続けた。
「お前は小日向にとって大事な存在だろう? 来てくれたことは嬉しいと思うが、自分のために無理をさせてしまったと思っている。そうじゃないといっても小日向はそう言う奴だ。少しはわかってやって欲しい」
「・・・・・・それは今日で痛いほどわかったよ。わかってる、もう無理はしない」
「頼む」
「ああ」
律の言葉に頷く榊を見て、律は安心したようにため息を漏らすと「夕食の時間になったら呼んでくれ」と一言言って出て行った。
榊は髪の毛に絡む水滴をバスタオルで吹き飛ばすと待っているであろう少女の元へとゆっくり歩き始めた。
ゆっくりと歩いた先に見えたキッチンにかなでの後姿を見つける。
榊はそと近づくと後ろからかなでを抱きしめた。
びく、と身体を強張らせるかなでに「ひなちゃん」と耳元で榊が囁く。
「大地先輩・・・・・・」
「ごめんね、ひなちゃん。今度からは無理しないよ」
「・・・・・・そうしてください」
「でもね、ひなちゃん。君の料理が楽しみだったのも事実なんだ。それだけはわかって欲しい」
榊が呼ばれた理由、それはちょっと多めに作ってしまった夕食を一緒に食べないかと言うもの。
今日、榊の家は生憎母親が留守にしているのをかなでは知っていた。
父親は忙しい外科医でもある。当然ご飯が簡単なものになるのは予想していたため、そうであるならとかなでが提案したことだった。
だが、運悪く天候が不安定となり、榊が家を出た頃にはぽつぽつと雨が降り始めていた。
それでも遠くないはずの菩提樹寮。すぐに着くから大丈夫だろうと言う榊の考えが甘かったらしい。
びしょ濡れで現れた榊にかなでは最初は呆然とそれを見ていたものの、すぐに風邪引くからお風呂に入ってときっぱりそう言い放った。
「・・・・・・わかりました」
素直に頷いたかなでに榊はほっと息を吐いた。
自分の好きな人が笑っていてくれれば一番嬉しいのに、会った時からずっと眉間に皺を寄せたままだったから。
それが榊にとって一番悲しいと思う。
「ねぇ、ひなちゃん。さっきからいいにおいがするんだけど」
鼻をひくひくさせながら、榊はこの匂いの源を問う。かなでは「あったかいスープを作ったの」と返した。
「夕食前に大地先輩にだけ、特別ね」
小さく笑うかなでに榊は後ろから抱きしめていた手を強くして「全く君は」とため息を吐いた。
怒ると確かに怖いけれど、やっぱりかわいい。
そしてどうしようもなく愛しいと思う。
「好きだなぁ、ひなちゃん」
「だ、大地先輩?」
急に何を言い出すんですか、とかなでが抗議するも、榊は本当のことだと言って譲らない。
かわいいものはかわいい、好きなものは好きだと榊は当たり前のように口にする。
「大好きだよ、ひなちゃん」
そう言われて嬉しくない人なんているわけがなくて。
かなでは、少し困った顔をしながら「・・・・・・私もです」と答えた。
雨に降られて少し損をしたと思ったけれど、結果的に良かったのかななんて思いながら榊はぎゅっと抱きしめる手を強くする。
いつまでも自分の傍にいて欲しい、そう思いながら愛しい彼女の名前を呼んで、榊は笑った。
終