ひだまり
北極から帰ってきて、真っ先に迎えてくれたのは『母』、だった――――。
「カノン。今日は村役場に行くわよ」
「は?」
私は思わず目を見開いて、目の前にいる容子を見る。
「ほら、ちゃんと名前の方を変えなきゃ」
「あ・・・あぁ」
そう言えば昨日容子が言っていたのを思い出した。
正式に『羽佐間カノン』と改名するのだということを。
もう、『メンフィス』という苗字はいらないから。
「ほら、支度して行きましょうか」
にこにこと笑って、容子は確かにそう言った。
帰ってきてから一週間も経っていない。
島の復旧に全力で注ぎつつも、皆それぞれやることがたくさんあるために、さほど進んではいなかった。
それでも、また平和を取り戻しつつあるこの島にとっては今が勝負。
あの戦いで同化を促進させてしまった一騎は治療に専念していた。
私や真矢、剣司は普段どおりの生活とまでは言わないものの、色々と片付けに追われていたのは言うまでもない。
そんな忙しさからか、まだ容子のことを『母』として呼んではいなかった。
「カノン。まだー?」
玄関先で容子が叫ぶ。私は「今行く」と言って、階段を降りた。
玄関を出ると外の空気が顔に伝わる。寒い、と思いながらも私は容子の隣を歩いていた。
互いに無言で歩く。
会話がないわけではない。ただ、続かないだけだ。
私が不器用だと言うのもあるのだろう。もっと別のことが言えないのかと自分に文句の言葉を並べる。
「カノン?緊張してるの?」
容子はふふっと笑って、無言な私を見つめた。
「そういうわけではないが・・・・・・」
「そうね、苗字を変えるんだもの。少しくらい緊張するわよね」
「・・・・・・・・・」
「カノン?」
黙ったままでいる私に容子は顔を覗き込む。
「いや、私でいいのか、と思って」
すると容子はふふっと微笑んでこう言った。
「カノンがいいのよ」
優しい笑みだった。ここに来て、ここで生活し始めて、初めて人のやさしさと言うものに触れたような気がする。
その容子の笑みが印象的で、多分この笑顔を私は忘れることはないだろうと、そう思った。
「では、これに異存はないですか?」
役場の人間がそう言うと「ええ」と容子が答えた。
「お願いします」
私も頭を下げる。「わかりました」と言って役場の人間は笑顔で答えた。
紙切れ一枚で決まることだとわかっていても受理されるまでは緊張してしまう。
「いいですよ」と言われ、そうしてやっとそれが受理されたと聞くと、少しだけ安堵の顔を浮かべる。
それは容子も同じだったらしい。同じような仕草をしていたから。
役場を後にして、私も容子も歩き出した。
だいぶ日が昇ったためか、少しあたたかな空気が頬を掠める。
「気持ち良いわね」
容子が言う。私はそれに頷いていた。
私は役場を出てからずっと考えていたことがあった。
いつも言おうと思っていて言えなかった言葉。
その言葉を呟くにはまだ心の準備が整えられてはいないけれど。
でも。
折角だからこの機会に言いたいと思う。
「あ、あの・・・・・・っ!」
少し前を歩く容子の背中に向かって私は声をかけた。
容子は振り返る。
すると互いの瞳が交差し、その視線から動かすことはない。
苗字が『羽佐間』に変わったのだから、と自分を奮い立たせる。
「母・・・・・・さん・・・・・・っ」
搾り出すようにその言葉を呟くと、容子の目が見開かれた。
驚いたと同時に、その瞳を潤ませて私を見つめる。
「カノン・・・・・・」
私の名を呟くと、つっと頬を伝って雫が零れ落ちる。
冷たくさらされた頬は微かに蒸気を発していて、私の頬が真っ赤に染め上げた。
こんな時は大抵何が何だかわからなくなるのに、今はとても頭の中がクリアだ。
「ありがとう、カノン」
そう言うと微笑んで、私を見つめた。
もう家族なんてものはできないと思っていた。
失われた時から、人との距離を置くようになった。
けれど、ここに来てから変わった。
もう一度そのぬくもりに触れてしまったから、だから、今はそれを大事に生きようと思う。
少しだけ歩みを進めて、同じ位置に立ってから二人でまた歩き始めた。
冬の間の、少しの陽の暖かさが滲む。
ひだまりが私たちを包み込んでいた。
終
post script
カノンと容子です。
この二人の話は24話の二人を見て書きたいと思っていました。
二人にとって、ようやく家族らしくなった瞬間だと思います。きっと二人はこれから先もいい親子になるでしょう。
苗字を変えたのは一区切りです。きっかけってそんな些細なことから生まれるものですよね。
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